設立趣意
共創する文化の発信を

設立委員会・委員長 三輪敬之

昨今の情報メディア技術はAI技術も加わり、人と人、人とモノ、モノとモノをつなぐネットワーク形成の可能性をますます拡大しつつあります。 しかし同時に、それは、生活の場における気づきや出会い、関係の深化を伴う身心のコミュニケーション、 さらには長い歴史を経て形成してきた即興性に満ちた豊かなコミュニケーション文化を喪失させてもきました。 このような矛盾を乗り越えて、新たな生活文化の創造を目指すのが共創学会です。それは、 2011年の東日本大震災によって打ち砕かれた安全・安心神話から脱却することとも関係します。

そのため、共創学会で取り上げる共創の論理は、他者性や身体性、場や間(ま)、無意識、 自然といった“見えない働き”を取り込むことを大きな特徴とします。この実践技術と理論について研究することで、 根源的多様性と対等性に裏打ちされた共創のコミュニケーションが実現されるはずです。そして、 “する・される”関係から“共にある”関係へ、さらに“共になる”関係へとコミュニケーションが深化していくことが期待できます。 それを私たちは、異(事)・共・成をもじって“こともなり”技術と呼びたいと思います。

本学会では、このような“こともなり”の技術を“共創するファシリテーション”として取り上げます。 これは、表現の場における調整・調停といった既存の意味を深化させるもので、場を耕すことによって、 活動者の主体性や潜在性が“おのずから” 引き出されていく、そういった新しい理論、実践手法を追求するものです。 これにより、見える世界の働き(内へ)と見えない世界の働き(外へ)を橋渡しする共創の理論や実践手法、技術が世界で初めて示されることでしょう。

“こともなり”技術は、柳宗悦の民芸や障害者らとともにつくるソーシャルアートにも萌芽を見ることができます。 アートには異質の他者との出会いを媒介し、生き方や価値観を転換する働きがあります。柳宗悦は「不完全を厭う美しさよりも、 不完全をも容れる美しさの方が深い」(美の法門)と述べています。このような視点から、 共創のファシリテーション技術を生命の跳躍を促す新しい“表裏・現アーツ”として位置づけることにも挑戦します。表現ではなく表裏・現としているのは、 見えない世界の働きを重視するからです。
加えて、学会が多様な現場をつなぐ共創のプラットホームとしての機能を果たすことによって、多くの実践例、 実践手法、実践理論を現場に提供していくことを目指します。皆さん、共創学会を起点に、一歩前に踏み出してみませんか。 共創理論の創造と実践技術の体系化を通じて共創学を確立することにより、共創する私、共創する教育、共創する医療、共創する経済、 共創する法、共創する技術、共創するコミュニティ、そして、共創する文化を世界に広く発信していきましょう。違いを違いのままに、今ここに、ともに生きていくために。

語義矛盾としての共創

設立委員会・副委員長 郡司ペギオ幸夫

「共創」という名のもとに何かをなそうとするなら、「共創」が絶望的に不可能で、ほぼ語義矛盾であるとの了解から出発すべきだろう。

我々は多くの場合、暗黙の裡に共に創ることの根拠を、何らかの連続性、均質性に求め、 それ故に可能だと考える。根拠をあげ、可能性を説明することは、様々な事例の個別性、差異を排除し、 一般化することに求められるからだ。説明することで、我々は多様性を排除し、世界を一般化・等質化・連続化してしまう。我々はそのような説明様式に慣れ過ぎている。

等質化可能な集団に、共にある根拠が求められる。しかしそこには予め想定不可能な異質性、火花を散らすような接触がない。 そこには、作業はあっても創造はない。他方、新たな創造のために必要な、「ここ」にはない外部・他者は、共にいられないが故に外部と位置付けられる。 外部・他者は、共にあることを拒否することになる。かくして、「共」と「創」は矛盾し共存できない。

しかし「共」と「創」の矛盾は、等質・連続に基礎づけられた思考からもたらされるに過ぎない。そうではなく、世界は異質・不連続に基礎づけられたものではないか。 そう考えることも可能だ。時間は連続で一様に流れるものではなく、不連続で不均質なものではないか。そう考えるとき、静止した時間や、逆行する時間を許容する心理的時間が、 時間の中枢となり、連続的な物理的時間は、むしろそこから構成されるものとなる。ロボットから生命への連続性を想定するとき、人間に似通っていくロボットと人間の間には、 不気味の谷と呼ばれる断絶が発見される。それは不連続で異質な本来の世界を、連続で等質なものと近似する無理が破綻した結果ではないのか。不連続性は、不気味の谷にとどまらず、 逆にそこら中にある。不連続を連続へと反転することが可能だからこそ、我々はグロテスクさの中にカワイイを発見できるのではないか。 連続性・均質性から出発するとき、不連続(グロテスク)の反転―カワイイは理解しがたいものとなる。

異質なものの相まみえる世界は、居心地の悪い、絶えず緊張する世界なのだろうか。そうではないだろう。異質なものの間にある断絶・不連続性は、連続とみなすことを許容する行為=メディアに満たされている。それは、或る者が愛、或る者が生命、或る者が観測と呼ぶものである。共創は、その次元において成立するに違いない。